頑固に押し通すが、規範に従っている ――書家の李文彬について

2018-02-27
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 李文彬さんは幼いころから書道がすきで、名書家の白允叔に師事していた。師匠から書道の真髄を得て、李さんの字がきちんと整っていながら、とても洒落ている。16歳の時、成都市書道研究会に入会して、当時の一番若い会員になった。李さんの作品は魅力があって、国内外の書道界から好評を博した。

 もう四十歳になった李さんはまだ書道に耽ている。作品の行間に「痴」という米芾の字の味わいが漂っているし、点、横、縦、左はらい、右はらいなどの筆画は含蓄で正確だし、味わうに値する。また、李さんの人柄は実直でありながら、謙虚で礼儀正しいので、中国の古人の風采をもっている。タバコを持ちながら執筆するとき、蘇東坡の字の「放」という趣もあり、洒脱だし、これを見る人の心も高揚される。李さんは何事にも拘らずに自由だし、人と争わないし、寛容の精神を持ってる人だから、作品に「仏」の匂いが溢れている。

 「文彬が若い時もう頓智した」と汪介琦先生はそう言ったが、私は文彬がまだ頑固に押し通していると思う。書道へ執念を持っているだけに、李さんは三十年のあまり書道の古い規範をきちんと守っていて、毎日倦まず弛まず書道に精進している。そのような超然たる根気が今の時代では実に珍しくて、人々に感心されている。芸術の形式が多元化されている今は書道もデジタル化され、画像化されて、伝統的な書道に携わている人は少なくなった。高度な科学技術の発展につれて、人間の伝統的な芸術への楽しみはコンピュータのキーボードやマウスの操作へ変わった。それは人間社会の進歩か衰退かはわからないのだが、ある意味ではそれは人間の堕落だと言えるのではないでしょうか。生物の滅亡、種の消滅は我々人間に悲しがらせるが、人間の思想の停滞と精神の機械化という問題はもっと悲しいと思わされる。

 従って、李文彬のような芸術家は今の時代では実にありがたい存在だと思う。人間の交流意欲は芸術の源だから、ある意味では芸術も一種の言語だと言えるのでしょう。書道は抽象的な視覚言語として、自分なりの形式をもって、人間の審美欲望を満たし、人間の精神や心を豊かにさせている。文彬の書道には調和がとれている。調和感のあるものは人間の崇高な魂を表しているから一番美しい。これは文彬の追求だけでなく、全人類の希望だ。

新春の始まりにあたって、これからもっと伝統的な書道に精進しようと文彬さんは言った。

伝統的な規範を守っている芸術はもっと輝かしいと私は深く信じている。


陶晶

                 四川師範大学美術学院油絵学科の主任 教授

                      2008218城东香荷坊にて



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