素朴で奥ゆかしい宴席
李文彬は父が蜀という地域(今の四川省と重慶市)の有名な料理人だが、父の仕事を受けつがなく、書道に取り組んでいて、今はもう書道の大家になった。料理と書道は全く違っているように見えるが、実は異曲同工なところがある。柄杓を持つことと筆を握ることはともに手の技量が必要とする。それに、両方とも細かいところを間違えたら、雲泥の差になる。料理の大家は食材を巧みに選んで美味しい料理を作るのが得意だが、書道家は古今の大家の技法を学んで素晴らしい字を書くのが得意なのだ。従って、料理人は物質的な宴会ができるのに対し、書道家は精神的な宴会が提供できる。料理人は人の口と腹を満たすが、書道家は人の目と心を薫陶する。両方とも人間の健康にいいし、民族の品位と審美の趣を高めるのにもいいのだ。
今回、文彬は観衆に素朴でありながら奥ゆかしい「宴会」を提供した。それは文彬が佛の経典をもとにして作った作品だ。従って、観衆たちは今度、文彬の字の趣を楽しみながら、佛の経典を鑑賞することもできる。
静かにして、また、もっと静かにして。ゆっくりにして、また、もっとゆっくりにして。短い一生の中で佛の経典を消化し吸収できるのはとてもありがたいことだ。
松明と探索
手本を見ながら習字すること、師匠に伺うこと、読書すること、見学すること、日夜練習に励むことはほとんどの書家の成長のための必然的な道だから、文彬も例外ではない。
しかし、他の書道家と違って、文彬は恵まれたチャンスを思わずにしっかりと捕まえた。1978年、12歳の文彬は書道家の白允叔の弟子になった。その年は中国の改革開放の早春の時期にあたり、大学入試も回復されたし、中国の青少年はみんな元気がみなぎっていて知識を吸収していた。国語、数学、外国語などの学科では、教師たちは忙しくて手も離れないほどだ。それに対して、書道は当時まだ未熟だった。だが、ちょうど壮年期にあたる白先生は充分な精力を持って、いたずら坊主の李文彬をしっかりと育成していた。四年間の勉強を通して、文彬の基礎は揺るがなくなった。16歳の時、文彬はもう文質彬彬な人になって、成都市書道研究会に入った。お年寄りの書道家の中で、文彬はまだ子供だったが、みんな喜んで文彬を指導していた。勤勉な文彬も蜂のように諸家の技法の花の蜜を取っていた。
文彬は書道を習い始めた2年前、中国の「四人組」はまだのさばっていたので、書道を教える人はあまりいなかった。だが、文彬が書道を始めた数年後は中国の書道はブームになって、いい先生に師事することは非常に難しくなった。従って、文彬はいい時期に書道を選んだ。つまり、文彬は当時、天の時、地の利、人の和に全部恵まれた。それに、文彬は自身も勤勉なので、成功するのは当たり前のことだ。
文彬の作品から、我々は彼の着実な腕前が感じられる。また、碑文、法帖と草書を合わせようという探索や諸家の技法をまとめる能力も窺われる。
歴史は常に勇気のある探索者を好んでいる。
天才の土壌
「天才はありがたいが、天才を培う土壌はもっとありがたいのだ」と魯迅は言ったことがある。
文彬は成都市青少年文化センターのベテラン教師として、もう仕事を30年間懸命にしたから、今は全国青少年書道教育界の名教師で、教え子が全国各地にいるのだ。生徒は根気があれば、文彬は百倍、千倍の根気を持って、熱心に生徒を指導する。生徒たちが受賞したメタルは文彬にとってここ三十年間の働きの最高の報酬だ。
今の時代はキーボードの時代と言った人はいるが、キーボードも時代遅れになって、今はタッチスクリーンの時代だと反論を出した人もいる。キーボードであれ、タッチスクリーンであれ、以下のこと信じてほしい:
毛筆は歴史の舞台から退出はしない。今、かえって舞台の中心へ進んでいる。また、書道も衰退はしなくて、きっとますます盛んになると思う。書道は個人にとっては気息を練習し、気質を磨き、体質を強め、修養を高める道なのだ。国家にとっては、根を継ぎ、文化を伝え、先賢を追憶し、古今を通じる道なのだ。何と言っても、書道は個人のとっても、国家にとっても有利な事業なので、前途は必ず輝かしいのだ。
文彬は今、生徒を導いて、この輝かしい道で走っている。
文彬は絶え間ない成功を得られるようにと祝福する。
(譚楷:雑誌『ファンタジー世界』の原編集長、名作家)