「草堂」という照画作品を鑑賞することは私にとっていままでにない芸術体験だ。
斎鴻さんは名高いカメラマンだ。
「草堂」における撮影の芸術性が強いので、これは斎さんの新しい撮影作品だと鑑賞したとたん判断を下す人がいるかもしれない。その判断は間違ったとはいえないが、ちょっと不全面だと思う。実は撮影はただこの作品の一部分だ。もう一つの部分は絵画なのだ。「草堂」は斎さんが撮影と絵画という二つの芸術形式を結び合わせて作った独特な照画芸術の作品だ。創作の前半の部分は撮影創作の段階で、できたのはただ白黒写真だ。後半の部分は昔の詩情あるれる杜甫草堂の姿に対する自分なりの理解に従って、その白黒写真に着色する部分だ。
1839年、フランスのダゲール氏は「シルバー・エディション・フォトグラフィー」という撮影術を発明したあと、ハンディタイプの木箱カメラは誕生した。当時の写真は白黒なので、写真に着色した人が出てきた。当時の着色はただ白黒写真に色を添えたので、芸術性があまりなかった。だが、斎さんの着色は非常に自然で、着色した痕跡は見えない。構図や色彩などの違和感が全然ないから、それは本当の杜甫草堂のカラー写真だと勘違った人もいる。これは鋭い目を持っている斎さんが杜甫草堂の特殊な美を発見して、カメラでがちゃんと撮った傑作なのだ。
今回の作品展の一部分の白黒版の写真を見て、本当に驚いた。斎さんは自分の両手で着色した作品は撮影と絵画という二つの芸術形式を完璧に結び合わせた。天衣無縫と言っても過言ではない。彼の創作は我々の創造できないことだ。前半の創作つまり白黒写真の撮影はただ鋭い目のもとに言えない美しい瞬間を撮ったことだけではない。
今回の作品展の企画と序言を担当したおかげで私は全部の24枚の白黒原版を鑑賞した。それに、2014年1月1日からの斎さんの創作日記の手稿を繰り返して読んだ。数度の面談のあと、創作前半の白黒写真の撮影も我々は創造できないことだ感服した
「昔のことは私の心に掛け替えのない美しい存在だ。カメラマンはただ現在を留める人だと言われているが、私は現在のことに全然興味がない。私の記憶に残ったのはただ青春期の私がハイキングに行った杜甫草堂だ。だから、「草堂」は私の心を昔の杜甫草堂へ持って帰ってくれたーーーそれは古人が言った具体的なことから抽象的な美を探すということだ。昔の詩情あふれる杜甫草堂からきっと草堂の特有の雰囲気とリズムの美しさを発見できると自分がそう信じている。」と創作の契機を聞かれたとき、斎さんがそう言った。
だから、昔の杜甫草堂を探すのためこそ今回の創作の縁起なのだ。「同時の草堂はこの町の郊外にあった。周りはただ畑だったので草堂は純自然の環境に存在した。一切は美しかった。今の草堂とは全然違っていた」。だから、彼は「草堂を直接に撮影することはしない。自分の思っている影像を作り出す。」という理念をもって今回の作品を完成した。
そのために、斎さんは独特な撮影方法に工夫を凝らした。「現在の草堂はもう昔の草堂ではない。私が撮ったのは現在の草堂ではなく、昔の草堂でもない。私は創造的に新しい草堂を作り出す。これこそ私自分の草堂だ。」、「私が創作した草堂はこれまでに他人が撮った草堂と全然違っている。私は人々の草堂に対する想像の空間をもっと広げたい。その上、人々のいままで草堂に対する認知を変えりたい。」と斎さんは言った。
創作のため、2014年1月1日からのほぼ一年間の間に、斎さんは何度も草堂へ行って撮影した。だが、彼は使ったフィルム(期限を過ぎてもう十年間だ)はただ7卷70枚だーー自分の作品に非常に厳しいからだ。彼は成し遂げようとするのは「他人の見たのと全然違っている影像を発掘したい。それは私の心像なのだ。」「その目標は私に草堂を感触させ、草堂の精神を発掘させるーーー発掘、また繰り返して発掘、考古学者が文物を考古するようにーーー私がほしいのは非正常の撮影作品だ。それに、前人がいままでに作らなかったこと、自分なりのことを自分の作品に注ぎたいのだ。だから、前半期の創作で私はもう非常にベンチャーな旅行を経験した」。
結局、白黒原版が現れてくるのはまさに斎さんが探していた心像なのだ。彼は草堂の精神と特有の雰囲気を掘り出した。「草堂は私にとっては一種の幻覚だ。神秘な雰囲気の中に情調がゆっとりと漂っている。その中で美妙な楽章が聞こえてくる。バッハの音楽のようにーーー。草堂には主旋律がない。だから、私は思いままに自然的に草堂の精神に入り込んだ」。簡単且つ素朴な白黒原版は斎さんの厳しい手探しと独特な創作手法によって、我々に草堂の古来のゆっとりとした詩情を感じさせくれた。
斎さんは真心を込めて撮った白黒写真に施した絵画の創作活動の成果はこれ以上言う必要はないと思う。この24枚の照画作品は斎さんの絵画芸術における創作の腕を見せている。
「私は創作の過程を楽しんでいた。この美妙な過程はただ私一人に属しているから、他人とシェアできない。いずれの作品は私の内心にある不思議な感じを込めているから、創作の過程は再び内心に漂っているさまざまな情緒を触らせた。写真は次第に絵画になってきたが、その情緒がまだ写真の形式と内容に残っていた。形式と内容は私の期待していた情景を醸し出したーーー照画創作は私の能力や知恵が注ぎこまれている一種の不思議な創作活動だ。実は、私は「照画」によって自分の潜在的なエネルギーを表したいのだ。」と今回の作品の創作経験について斎さんはそう言った。
「私は泣いた。心の中で私は草堂がわかった。草堂や、私は来た、君の草や木や花や景色などきっと全身全霊に愛していく。それに君の本当の意味での芸術美を輝かせてやろう。」という斎さんの日記の一篇に心が打たれた。――この「草堂」という芸術作品は斎さんの心をこもって創作した作品といったら何の間違いはない。芸術は心に関わっていることだ。斎さんは真挈の感情と草堂に対するあふれる熱意をもって、優れている撮影の創作能力と絵画能力によって我々を感動させる傑作ができた。
「私はきっとできる」と斎さんは日記の中でそう書いた。実は彼はもう目標を成し遂げた。それに、この作品も我々の想像を超えた。彼は優れている撮影創作能力と絵画創作能力によって我々に詩情あるれる芸術の世界を作ってくれた。それと同時に我々の心を昔帰りの旅へ連れていってくれた。
柏水
2016年3月